鈴鹿高丸
全ての始まりは、そこからだった。
少なくとも、オントにとっては。
それこそが、始まりだったのだ。
時間は巻き戻り。
それは、二十七年前。
まだ、十歳になったばかりだった。
けれども、しっかりと覚えていた。
それが仕方のないことだったとしても。
彼は、忘れられるわけもなかった。
例え、忘れたと思っていたとしても。
それは彼の心の奥深くに刻み付けられた。
「好きにするがいい――集落のために死ねるなら、その子も族長である私の息子として、本望だろう」
それは、他の何者でもなく。
彼の父――当時の族長、キリク・ナ・ウスタが言い放った言葉だった。
オントの、その、目の前で。
そして父は、背を向けた。
見守る集落の者たちをかき分けて、背中は小さくなっていく。
それを見て、一人、また一人と。
最初は十数人もいた人々は。
戸惑いの表情を浮かべながら、同じように背を向けていって。
最後には、誰もいなくなった。
世界が、暗くなる。
その頃はもちろん、島は健在で。
湖の集落だけではなく、各地にたくさんの集落があった。
それぞれの集落はお互いに程良い距離感を保ち、物々交換などの細々とした交流をする程度だった。そもそも島の民の間には、領地という概念が希薄だったため、争う理由がそれほどなかったのだ。
それでも、稀に。
争いの起きることはある。
そのときも、きっかけは些細なことだった。
湖の集落と、そこからさほども遠くない場所に住居を構える、木の集落。
名前の由来ともなっている大きな楡の巨木の周辺を取り囲むように家が並び立つ集落。
最初は、狩場の衝突だった。
その年は実りも少なく、それに従い獣の影も減っていた。
木の集落はいつもの年より狩場を広げ――そして、こちらのそれと重なった。
少ない獲物を取り争う。
こちらは湖からの恵みもあったが、しかし木の集落よりも住む人が多い。相手と同じように食料は足りなくなってくる。
お互いに譲れば、それほどのことにはならなかったかもしれない。
しかしオントの父、族長のキリクは、頑なな人間だった。
そして、自分よりも家族を、家族よりも集落を大事にする人間だった。
相談を受けた彼の出した方針は、譲ることを良しとしないものだった。
尚悪いことに。
相手の集落の出した結論も同じで。
二つの集落の関係は、険悪なものとなる。
少しずつ、衝突は続き、口論を重ね、小さい喧嘩を続け。
次第に、事は大きくなってくる。
互いの感情が、高まってきて。
ある日。
オントは、木の集落の者に、浚われた。
突然のことだった。
何が起きたのか、分からなかった。
木の集落の要求は、狩場を譲ることだった。
そうしないのならば息子の命は保証しないという、定番の口上。
やがて指定された日時に、指定された場所で。
父が息子の前で放った言葉が。
あの言葉だった。
あまりと言えばあまりの言葉に、困惑したのは木の集落側だった。
そのままオントは連れて帰られ、しばらくの間監禁された。
しばらくして双方の間に、湖の集落に有利な取り決めが交わされて。
オントは解放されたのだけれど。
その間、ろくな食べ物が与えられるわけもなく。
傷つけられもして。
辛うじて生きているというほどの。
ぼろぼろになって帰って来たオントに父は、普段通りにしか接しなかった。
労わりの言葉も、労いの言葉もなかった。
族長の息子ならば、集落のために犠牲になるのは当然。
周囲にも、そう言い放っていた。
天真爛漫、という言葉が似合っていた少年は、変わってしまった。
それから長い間、塞ぎこんでいた。
自然と、オントに対する皆の扱いが、腫れ物に触るようなものとなる。
普段通りに生活して見えるようでも、どこかに憐れみを感じる視線。
ずっと、考えていた。考えることは苦手ではなかった。
見放されたこと。
今はこうして戻ってこれたけれども。
父の態度が以前とは全く変わらないことが、逆に。
怖かった。
監禁されていた日々のフラッシュバック。
襲いくるたびに、その後に響く、父の言葉。
あの時の言葉。
長い間、考えて。
思った。
強くあらねばならないと。
人に身を委ねず、自分だけでも生きることができるように。
自分は族長の息子だ。
将来の族長。
捨てられないためには、捨てられる立場にいなければいい。
その日から、オントは元の姿を取り戻していっているように見えた。
むしろこれまでよりも大人びて、積極的に人と関わるようになっていった。
子供たちの間でリーダー格となるのも、それほどに時間はかからなかった。
どちらかと言えばひ弱だった身体もあっというまに成長していって。
誰もが将来の族長の姿に安心感を覚えるような。
そんな青年へとなっていった。
心に闇と信念とを抱えたまま。
だから、彼が彼女に惹かれたのは、必然だったのかもしれない。
出会いが偶然だったとしても。
島の全ての民のために、犠牲となることを強いられる者。
それを分かっていて、覚悟をしていて。
それでもなお、人と心穏やかに接することのできたあの人に。