アトラ・ハシス

ショートストーリー

『彼と私と』

川岸満里亜

 その瞳は遠くを見ている。
 どこか、寂しげだと感じていた。
 故郷と仕える主への想いは彼自身が会議で口にしていた。
 けれども。
 どうしてあげることも出来なかった。
 逆に、その思いをこちらに向けてほしいと。
 村をもっと見てほしいと、切に願ってしまっていた。
 傍らで微笑んでいるのに。
 私の言葉、一つ一つに頷いてくれるというのに。
 その心の奥は、何もわからない。
 今、何を考え。
 何を求め。
 誰を愛しているのか。
 何も――。

 だから。
 その瞳を自分に向けられた時。
 私は、言いようもない衝撃を受けた。
“あなたも俺をおいていってしまうのですか”
 その言葉を聞いた当初、彼は私に重ねて誰かを見ているのだと思った。
 でも、続く言葉を……信じてみたいと思った。
“共にありたい人の手を放すわけにいかない”
 愛する人の面影を追い、自分の元から去っていく人を引き止めたいのではなく。
 自分も行く、と。
 私に向かって、『共にありたい人』だと言ってくれた、彼の言葉を。

 村長である私にとっては、彼もまた、守らなければいけない村人の一人。
 私自身も、自分を助けてくれた彼を、大切に思っているというのに。
 私は、子供じみた理屈をこねた。
“交渉に行くのは、あくまで、村の代表の私。だから補佐の彼が、私が本当に大変なときに、傍で私をサポートしてくれるのは、当然だと思ってる”
 多分、オリンには、呆れらただろう。
 今から行く場所がどんなに危険であるかは、誰もがわかっていたというのに。
 死ぬつもりはない。
 つもりはなくとも、どうにもならない時もある。
 あの、洪水のように。
 二人共、皆の元に戻らなければ。
 困難を乗り切ったとしても、過酷な日々が訪れるだろう。
 激を飛ばして、皆を引っ張り持ち上げる私がいない。
 穏やかに皆の話を聞き、優しく覆ってくれる、彼がいない。
 失望で、崖から身を投げる人もいたかもしれない。
 それほどまでに、傷を抱えて皆が生きていることは、分っている。

 でも、皆が誰かを……私達を必要としているように。
 私にだって、助けてくれる人が必要だ。
 島に辿り着き。
 この土地に辿り着いた時点で。
 私の役目は終ったと思った。
 ようやく解放されたと思った。
 あとは、島を探索し、生活を安定させたら、船の製造を提案しようと。
 そして、海へ出るのだと思っていた。
 全てを失ってしまったけれど。
 それでも、自分の知識を活かし、自分の道を歩ききってみせると。
 そんな時。
 村長に推薦されて……。
 嫌だッと言いたかった。
 私だって、誰かに依存していた方が楽だ。
 誰かにぶら下がっていた方が楽だ。
 だけれど、『出来ない』のと『やらない』のは違う。
 皆は私には出来ると思って推薦をした。
 私自身も、自分には出来ないとは思わない。
 ただ、やりたくないだけで。
 自分と同じ年頃の女性は、大抵が子連れだ。
 男性の殆どは、高齢であり、この何もない場所で皆を率いていくには心もとない。
 働き盛りの男性はそれぞれの役目を持ち、せわしなく動きまわっている。
 となれば。
 やっぱり自分が適任なんだ。
 そう、思われても仕方ない。
 思われるもなにも、その通りだ。
 それでも嫌だったから。
 私は、国王統治にして、自分は宰相という逃げ道を作ろうとした。
 そんな私に、手を差し伸べたのは……彼だった。
 村長の仕事を手伝いたいと。
 補佐をしたいと、彼は申し出てきた。
 彼は嫌な顔一つせず、私の指示に従った。
 余暇もなく、毎晩遅くまで、文句も言わず働いてくれた。
 彼は、わき目を降らず突き進む私の隣で、そっと足元の小石を払ってくれるような人だった。
 私には持っていない特質を持っている彼が、ずっと側でサポートしてくれるのなら、この責務、背負っていけるかなと思いもした。

 けどね。
 彼は、突然崖から突き落としてくれる。
 穏やかな顔をして。
 優しい顔をして。
 心地よい声を持っているのに。
 それは上辺だけなのだと。
 心の深い部分は、微笑んでなんかいないと、知る事になる。
“私は主と共に国に仕える身、二つの国に忠誠を誓うわけにはまいりません”
 ……まるで、それは私達を拒絶するような、言葉だった。
 この場所は、自分の居場所ではないと、きっぱりと言われてしまったのだ。
 ここを、支える立場の人間に。

 そして再び。
 共に行くと言ってくれた彼と、役場棟の廊下へ出た時にもまた。
“この村さえ救えなかったと知れれば叱られます。無能な奴は要らないと仰るでしょう。胸を張って紹介できる村にしなくては”
 彼は、主に叱られるから、だと言った。
 無能なヤツは要らないと主に捨てられてしまうから、だと。
 そういう言い方をしたのだ。
 やっぱり、彼にとっては、自分の主が一番で。
 この村は、自分の力を誇示し、主に認めてもらうための模型でしかないのかと。
 そう、感じた。
 諌めても無駄だ。
 何も変わらなかった。
 あなただけではないのだと。
 私にもかけがえのない大切ながいると。
 皆、苦しんでいるのだから。
 こっちを見て。
 そう諭したけれど。
 何もかも失い独りになってしまった人も。
 守るべき存在が有る人も。
 ここで、必死に生きようと。
 皆、足掻いているのに。
 一人。
 彼は一人、後ろを向いている。
 過去にすがり付いている。
 取り戻せない場所に、すがっている。
 怒っても、変わらない。
 泣きついても、変わるわけがない。
 彼にとって、唯一の絶対的存在が、彼の主であることは。
 そしてまた、同じことを言ったのだ。
 主が為に、と。
 ……多分。
 その言葉で、私も励まされるとも思ったのだろう。
 私にも、娘に胸を張って紹介できる村にしたいと思ってほしくて。
 でも、私と娘、彼と主では、関係自体が違う。
 娘は娘。
 私は私。
 違う道を歩む、別の人間だ。
 私は娘に依存はしていない。
 娘は私に依存することを望まず、私の元を去った。
 それはまた、この船は私に任せられると私を認めているということでもある。
 互いに愛しているけれど……私にとっては、最愛の子供だけれど……いえ、だからこそ、彼女の視線なんて関係ないのだ。
 私は娘に恥じることなど、何もしていない。
 胸を張って生きている。
 どんな結果を迎えようとそれは変わらない。
 互いの想いも変わることはない。
 唯一の、切れない絆で結ばれた、親子だから。
 だから。
 今は、傍いる彼が、私と同じ気持ちでいてくれることが、私には大切だったから。
 心が、漏れてしまった。

 彼が不安気な瞳で、私を見て。
 共に行くと言った時点でもう、私に選択肢はなかったんだ。
 もし、手を振り解いて、彼を振り切って私が交渉に行き。
 そのまま、戻らなかったのなら。
 あなたの心はどうなった?
 いつか言ったわよね。
“皆私のように強い心ではいられないから。皆が脆い心を持っていることは、理解しているのよ。だから、たまに怖くなる。私は耐えられても、皆は耐えられるのか、と。何かが起きた時に、私は皆の心を救ってあげられるのか、って。その心を壊さずに助けてあげられるのかってね”
 私は、それが本当に恐かった。
 あなたの心が壊れてしまいそうで、恐かった。

 自分自身の為に、あなたが傍にいてくれることを願い。
 あなたの心の為に、あなたに傍にいてもらった。

 その時。
 互いが互いを本当に必要としているのだと感じて。
 あなたの、たった一言が。
 私の心を絡み取り。
 ほんの一瞬のその『時』が。
 互いの心を結んでくれた。