鈴鹿高丸
名前を呼ばれるということは。
それだけで、心地良いものだということを。
初めて、知った。
自分がここにいるんだ。
そう、感じることができる。
与えられた運命を全うすること。
それが、生きる意味だった。
自分で決めなきゃいけないのは、とても辛いことだけれど。
それを探すことができるというだけで、うれしい。
うれしいんだって、気づくことができた。
* * *
風は荒れ狂い。
雨は叩きつけるように。
時折、雷を呼びながら。
水位は尚も上昇し――いまだ集落に危険はないものの、いつどうなるかも定かではない。
そしてさらに――ア・クシャスの山は碧の光を放ち続け。
多少でも呪力を持つ者ならば、そこから言い得ないような圧力――どこか心を落ち着かなくさせるような、焦燥感をかきたてる何かを感じとっていた。
人々の心情は、不安から――恐慌へと変わろうとしていた。
その、空を侵食する碧の光は。
山中の一箇所から放たれていた。
深い木々を切り開き、山中に唯一と言ってよい建築物――ア・クシャスを祀り、山の一族と呼ばれる者たちが住む社。
その社へと入っていける者ならば、その光がさらに奥、地下から発せられていることが分かっただろう。
社の最奥部、奥の間から降りていき、半地下となっている岩屋と言っていい、岩壁がむき出しとなった場所。
――儀式の間から、その光はあふれ出ているのだった。
光は、淡く儀式の間全体を包み込むように広がっていた。
そして、その中央――儀式の間の奥、祭壇の背後に。
碧の光そのものが、翼を纏った狼のような形を為していた。その姿の中、さらに強く輝く一対の光点は、まるで瞳のように、その前に立つ者たちを射すくめる。
それは今、最初に姿を現したときとは違い――周囲を押しつぶさんばかりの圧力を放ってはいない。
一見、安定しているかのように見えた。
しかし。
あくまでもそれは、その正面、祭壇の前に立つ同じ顔の二人――シャナと、セゥによってもたららされている仮染めの安定だった。しかも、溢れる力は止めようもなく――外を確認してきたマユラ・ナ・スウラによると、空を覆った雲は社から溢れる光で碧に輝き、風雨は強く嵐となり――終末を予感させる様子であったという。
そして――その危うい均衡も、もうまもなく限界を迎えようとしていた。
鏡を持つシャナ、石を掲げるセゥ。
その状態になってから、既に数時間。
息は荒く、汗が全身を伝い。目は虚ろに……その身体は立ったまま、時折小刻みに揺れる。
どちらも、誰が見たとしても――倒れる寸前、といった体だった。
長くはもたない。
――シャナもセゥも、ここで失うわけにはいかない。儀式を終わらせるためにも――そして何より、二人を死なせたくない。島に生きている人間みんなだって――もうこれ以上誰も死なせたくなんかない。
まだ、手はある――シャナは言っていた。
呪力の高い人間なら。
なら、自分だって多少の自信はある。
そう思って――ヴィーダ・ナ・パリドは、足を踏み出した。
ただ見守るだけじゃ、意味がない。
両手をそれぞれ、二人の腰にあてる。
「シャナ。セゥ……あんたたちは、短刀が戻ってきたら、儀式を終わらせなきゃいけない。それまで、力は残しとくべきだ。俺が……変わる」
ま、あれ程の力を抑えるんだ。無事にすむとは思えないが、とりあえず生きてりゃいいさ。全ての力を使ってやる。
自分に言い聞かせるように、心のなかでつぶやく。
ただ――さすがに一人で二人分の肩代わりなどできるわけはない。
まずは、どちらの代わりになるか――と。
シャナの腰に当てていた右手に、温かみを感じて。
ヴィーダは振り返った。
「……私も……手伝う……ぐすっ……アイリさんの……為……にもっ」
そこには、メルフェニ・ミ・エレレトがいた。
泣きじゃくりながらも――涙を一杯に瞳に貯めながらも――強い意志を秘めて。
そっとヴィーダから手を離して、シャナにしがみつく。
アイリさんが、死んだ。さっきまでは、そのことだけで頭がいっぱいで。
息を吹き返すわけでもないのに、傍にいれば、手を握っていれば、起き上がるような気がして。
ずっと手を握って、目をつぶって、泣いていた。
でも、どんどんその手は冷たくなっていって。
そんなときに、ヴィーダさんの声が聞こえて。
初めて周りを見渡した。
そっと、アイリさんの手を組んであげて。
立った。碧の光が眩しいけれど。
歩を進めて、ヴィーダさんの手を取って。
「やすんで……ください。シャナさんとも……もっと、いっぱいいっぱい話したいです」
そう、シャナに言った。
本心だった。それだけだった。
ヴィーダがセゥから取り上げるように石を受け取り、シャナの掲げる鏡を、メルフェニが代わってその両手で支える。
息も切れ切れに――シャナが、二人に姿勢と集中の仕方を伝える。
瞬間、碧の光が弾けんばかりに強くなるが――シャナの指示の後、それはゆっくりと収まっていった。
それでも、シャナとセゥがそうしていたときよりもア・クシャスの、その影のゆらぎは大きい。
吹き付ける風は強くなる。
外の天候も、より悪化しているかもしれなかった。
一時しのぎの、さらに一時しのぎでしかないのは間違いない。
「連れてきました!」
と――そこへ。
再度その場を離れていたマユラが駆け込んできた。
背後に、四人の男女を連れて。
祭壇の前に立つのがシャナ、セゥの二人でないのを察すると、シャナに指示を仰ぐように、連れてきた四人に促す。
その四人は座り込むシャナの前でいくつか話を聞くと、そのうち二人がヴィーダ、メルフェニを支えるように立つ。石に触れ、鏡を共に持った。
光の強さは変わらないが――早くも苦悶に近い表情になっていたヴィーダとメルフェニの顔つきが少しだけ和らいだ。
彼らは、山の一族の人間である。非戦闘員だが、呪力は高い者。そして――カケイが信に足ると判断した者たちだった。
「これで……少しは。でも……倒れそうになったら、また代わるから。誰がなんと言ったって」
「まずは今は、体力だけでも回復してください! 水と、少しだけど食べれるものをかき集めてきました。無理矢理にでも、口に入れて……」
つぶやくシャナをさえぎるように、マユラが声を張り上げる。
有無を言わさずといった調子で、かき集めてきた食べ物と、即席で調合した薬湯を並べていく。もちろん、セゥの前にも。
薬湯の匂いに一瞬だけ顔をしかめるシャナだったが、それでも鼻をつまんで一気に流し込む。
「カケイは……行ったのね」
その言葉に、マユラは頷きで返した。
そう、そこには既に――カケイと、そしてセイル・ラ・フォーリーの姿はなかった。
時間は少しだけさかのぼる。
シャナとセゥが儀式の維持、ア・クシャスの抑制を始めた直後。
「オントを止めなきゃという気持ちは分かりますが、そんな体で向かったところで追いつけるものでもありませんし、足手まといで迷惑で役立たずです……と言ったって、聞いてくれないんですよね?」
なおもオントを追って出て行こうとするカケイを、少しでも治療をするからと無理矢理引きとめ、マユラは語りかけた。
返答はない。それは、肯定の沈黙だった。
手を動かしながら、マユラは告げる。
「せめて、応急手当だけはちゃんとさせてください……あと、無茶はしないことと。無事に帰ってくることを約束、してくださいね」
さらにマユラは、残っている一族の人間の中で、儀式に協力できるような人材を探して見繕ってから出て欲しいと訴える。ア・クシャスが暴走してしまっては元も子もない、と。それはカケイの出発を少しでも遅らせて、気休めでも体力が回復してくれれば、と思ってのことだったが――理には適っている。カケイはそう言われれば頷くしかない。
「俺が、支えていくウガ。心配ないウガ」
そんな会話をする二人の前に、セイルが立つ。
「カケイさんを、よろしくお願いします。セイルさん」
マユラもそう伝えた。
そして、セイルを連れて――マユラとともに、人を探しつつ、食料などの場所も教えた後。
「カケイさん、わたくしの代わりに、オントに一発キッツイのをお見舞いしてきてくださいねっ」
そう言ってにっこりと笑うマユラに押されるようにして、セイルとカケイは、まだ混乱した人たちが集まる社周辺をかきわけるように、森の中へ消えていった。
それを見送って――マユラはそのまま、混乱した人々に目を向ける。人々も、社の人間たちの警護がしっかりしていない状態だと分かれば内部に押し寄せてくるかもしれない。
呪力がある、儀式に協力する人たちはそちらで手一杯だろう。
炊き出し、薬湯の準備。一族の、儀式に協力する者以外の人間も何人か紹介してもらった(そのほとんどが、老人かマユラと同じ子供だったが)その人たちに言って、社の中に人が入ってこないようにもしないといけない。
儀式の直接の手伝いができないからこそ、やらなきゃいけないことがある。
まずは急いで儀式の間へと戻りながら。
――でも、必ず、戻ってきてくださいね、カケイさん、セイルさん――
風雨の中駆けていった二人に、マユラは思いを馳せるのだった。
* * *
そうして社がア・クシャスの暴走を食い止めるために必死になっているころ。
山の麓、湖の集落も大変な状況に陥っていた。
荒れ狂う風、叩きつける雨――そして、碧に輝く空。光を放つ、ア・クシャスの山。
悪天候による被害、ただそれだけではなく。
明らかに、集落の人々は恐慌をきたしていた。
それは仕方が無いことといは言えた。
終末を予感させる。以前の――大洪水を思い出させるのだ。
あの不気味に輝く山が、儀式を肌で感じようと族長の言いつけを無視し社へ行った者たちが中々帰ってこないことが。
そして、その族長の姿が――見えないことが。
統率する者がいないだけではない。いない、という事実がまた不安を掻き立てる。
また、族長の補佐的な役回りをしてきたテセラ・ナ・ウィルトも現在は、島外の難民の村へ、ホームステイの保護者役として行ってしまっている。
そうなると――。
ある者たちは家に閉じこもり、また別の者たちは何人かで固まり、外へ出た。家が倒壊するのも怖いが――洪水が、再び――という恐怖もあった。
ただそれらは集団としては全く統制が取れておらず。
ただ散り散りに混乱を巻き起こすのみだった。
そうしている間も、悪天候は続き。
風はより強くなり――。
いくつかの家が、倒壊する。
特に、洪水後に他部族の受け入れのために建てられたものは急造のせいか強度が足りず、次々と薙ぎ倒されていった。
そして、雨風をしのぐ場所を失った人々がまた混乱を広げる。
「落ち着くんだ!! まとまって移動して! まずは小さい子供とお年寄り、女性から順番に、族長の家の前に集まるんだ!」
だが――それでもそんな中を、少しでも事態を収めようと走りまわる男がいた。
大柄な体躯から発せられる声は嵐の中もよく通る。それは安心感にも繋がった。
それは――アガタ・ナ・ベッラだった。
叫びながら、それだけではなく、周囲に寄りかかる人間のない老人や子供を率先して誘導していく。
突然の、異常すぎる悪天候。輝く山――おそらく、社。
とても儀式が終わったとは思えない。
族長はいない――のなら、やはり、そういうことだったのだろう。、
少しだけ、オントに思いを馳せる――が、それどころではない。
とりあえず、今やれるだけのことをやるのみ。島を出る計画は、事が収集してからになるだろう。
まずは数人を、族長の家に案内する。そこには族長は既にいない。行方不明――おそらく社に行っているのだろう。だが、もぬけの空にはなってはいない。
「お、こっちだ! とりあえずここで待機していてくれ。人数がある程度集まったら、水位のことも考えて、山手の方へ出発するからな!」
アガタが連れてきた住民達にそう声を駆けるのは、族長の家の前で待機していたアルマ・ナ・ラグアだった。
混乱の中アガタと合流したアルマは、お互いに相談し、まずはどうにかして混乱の収拾と避難をと行動を始めていたのだった。
まずはアガタが、混乱する人たちを族長の家に誘導する。できるだけ、老人、女性や子供を優先して。
集めた人はアルマが落ち着かせ、その後は洪水の可能性を考慮して、ア・クシャスの山を登り、中腹の安全なところへ移動する。そこで、何とか雨風をやり過ごすつもりだった。
いくつか、思いつく候補はある。狩のときなどに見つけていた洞穴などだった。そこならなんとかなるはず。
「族長はっ、族長はどこへいったんだ! 何が起こってるんだ……!」
集まった者たちから不安の声が上がる。
その雰囲気は、乾いた薪に火が着くように、あっという間に伝染していった。
それは、もうおしまいだ。ここも沈むんだ、と、絶望の声に変わっていく。
「落ち着け、って! 族長はどこへ行ったかわからないけど、とりあえずは安全な高台まで移動するんだ。無理にとは言わない。この集落に守りたいものがあるやつだっているだろう……だけどな、何よりも命が大切だろう? 生きていれば取り返しの付かないことなどないはずだ」
一喝し、その後は諭すように語る。
集まった人々が押し黙る。
それからしばらく待ち、さらに人が増えたのを見て――アルマは出発する、と宣言した。
「じゃあ、最後に一回りして声をかけて、後を追おう」
アガタがそう言う。アルマが頼む、と返事をしたとき。
「俺も行こう。まだかなりの人間が家の中に閉じこもってもいるはずだ」
そう名乗りでたのは、ラトイ・オ・アーリだった。
いつもの刺々しい雰囲気はそれほど感じられない。
「俺と一緒にこの集落まで避難してきたやつらの中にも姿の見えないのがいる――こんなときだ、協力して生き延びるのが先だ――」
そこには、生まれ育った土地を丸ごと失った者の苦渋の表情と、決断があった。
アガタは頼むぞ、手分けする、とラトイの肩を叩き――二人は出て行く。
それを見送って、アガタは集団を引き連れ山へ向かい始めた。
風雨は尚も強く、止む気配は微塵もなかった。
一回り、集落中を声をかけて回り。
どうしても集落に残るのだという者もかなりいたが、これ以上時間を取られているわけにはいかないと、ラトイに集まった人々の案内を任せて。
アガタは一人、集落の外れにきていた。
どれだけ忙しかろうと、かならず数日に一度はやってきていた場所。
そこは、家族の眠る場所だった。
しばし、目を閉じ――立ち尽くす。
そして――ゆっくりとかがみこむと、手にした小袋の中に、そっと。
妻と子の眠る、その地の――土をすくって、入れてやる。
愛しいものを撫でるように、そっと。
その口を硬く紐で縛ると、今度はしっかりと、立ち上がった。
まずは、今を切り抜けれなければならない。
そうしてアガタは、アルマ、ラトイたちを追いかけて山へと向かうのだった。
一方、先んじて山を登り始めたアルマの方はと言えば。
懸念していた山の一族たちとの遭遇はなかった。
洞穴もいくつか見つけておいたこともあり、かなり押し詰めてはいるが何とか全員が雨風をしのげている。
ただ、一つだけ――。
山のさらに上の方から、人が何人も逃げるように降りてきたことだった。
それらは、社へ儀式の野次馬に向かっていた者たちだった。
アルマは何人か見つけたそういった者に山腹にて避難していることを伝え、自分たちに合流するように呼びかける。
ほとんどの人間は呼びかけに応じ、一緒に避難した。
そしてそこから――社の、儀式の状態が垣間見えた。
やはり、儀式はうまくいってないらしい――山の一族が慌しく何か騒いでいるのは分かったという。
さらにはまた別の者からは――社の内部から化け物が出てきて、山を降りていったという話も出てきた。
それは人間のようにも見えたが――形相はとても正気ではなく。人の物と思えないほどに筋肉が盛り上がり、血管が芋虫のように幾重にも浮き上がり――顔も、その半分が同じように膨れ上がり、引き攣れのようになっていたという。
だが問題はそこではなかった。
その顔は、族長の、オントのその顔に見えたと言うのだ。
実際、オントの姿は集落にはない。
間違いではないかとは思うが――集落の中で最も顔を知られている人間でもある。
やがて到着したアガタからも、これまでの経緯を少しだけ、聞くことができた。
おそらく、そういうことなのだろう。
オントはもう戻ってこない――そんな予感がした。
* * *
時間にして、どれだけが経っただろうか。
慌しく働きまわっていたマユラには一瞬のように感じる時間だった。
儀式の維持を肩代わりしていたヴィーダ、メルフェニにはとてつもなく長い時間だった。
応援の一族の人間、シャナやセゥとも交代しながら、ただひたすらに祭具を掲げる。
難しいことではない。手順は。基本は掲げるだけだ。一定の所作や集中する方法がある程度だった。儀式を終わらせるための最後の手順とは違うらしい。
しかし、可能だということと、それがいつまで保てるかというのは全く別物だった。
既に、マユラが連れて来た応援の者たちは意識を失うまで維持を行い、一度休憩していたヴィーダとメルフェニが再度、鏡と石を掲げている状態。
そしてそのヴィーダの意識も、既に危ういところまできていた。
身体は立ったまま、動いていないはずなのに。
意識だけが、強い磁石に引っ張られるように。
渦に飲み込まれていく小舟のように。
吸い寄せられていく。
消えてしまいそうになる。
それを、必死に食い止める。歯を食いしばって。
あれほど感じていた圧力は逆に、全てを吸い取ろうとばかりに迫ってくる。
それは目に見えるものではないけれど。
はっきりと、感じる。
体力も、呪の力も。
身体の裡から、むしりとられていくのだ。
それは、眠りに落ちていくときに似ているような感覚だった。
視界がぼやける。
心地よくも感じる喪失感。
――いけない。
慌てて、首を振る。
その甘くもある誘惑を、何度目かに断ち切ったとき。
微かな音が、すぐ隣からした。
衣擦れの音だった。
ちらりと、目線だけで追う。
そこには、床に倒れこむところをシャナに支えられた、メルフェニがいた。
目は閉じられ――既に意識はないように見えた。
体力の限界が来たのだろう。
シャナがメルフェニの代わりに鏡を受け取る。
「後は――俺たちがやる――ありがとう」
声は、背後からした。
この短い間に、すっかり聞きなれてしまった、その声。
セゥが、ヴィーダの腰にそっと手を伸ばす。支えるように。さっき、ヴィーダがそうしたのと同じように。
ヴィーダも、限界は明らかに近かったのだった。
緊張の糸が――張り詰めていたものが、一気に切れた。
ふっと、力が抜け――。
メルフェニと同じように、こちらはセゥにもたれかかるようにして倒れこむ。
なんとか、意識は残ってはいたが。
「でも、まだ……短刀……は……」
そう言うのが精一杯で、石を掲げる手はあっさりとセゥにどけられてしまう。
「なんとかなる……いや、なんとかするさ」
「ええ……まだまだ……見たいものもやりたいことも一杯あるもの……それをヴィーダやメルフェニが教えてくれた……だから、もう生贄になるなんて言わない……生きて、戻りましょう」
セゥに続いて、シャナは言った。はっきりと。
それは意思ではなく、意志。願望ではなく、決意だった。
聞いて、少しだけ安心する。
安堵感と共に、脱力感が襲ってきて。
火照った身体には心地よい冷たさの床に、沈みこむように。
ヴィーダの意識も闇に落ちていった。
大丈夫、二人とも意識がないだけで、生命の危険はない。
マユラは倒れこんだメルフェニ、ヴィーダの様子を見て、そう判断する。
極度の疲労から倒れ、熟睡している、という状態が近いように思えた。
念のため身体を冷やし過ぎないように、かき集めてきた布でくるんで保温をする。
他の倒れた山の一族の協力者たちも似たような状況だ。意識は無いが、こちらは二人と違って体力もそこそこあるようで、まず心配はなさそうだ。
それよりも。
何より不安なのは――目前で尚も儀式の維持を続ける、最後の砦――セゥとシャナの二人だった。シャナは強気な発言をしていたが、限界ももう近いというのは呪力のあまり無いマユラでも分かる。
もう立っているのもやっとな体力。呪力の消耗も激しいのだろう。その表情は一様に苦悶を浮かべていた。
マユラが用意した薬湯も食料も、気休め程度だろう。呪力を回復はできるわけもないし、体力回復にしても、それほど即効性で強力なものがあるわけでもない。本来ならば、ゆっくりと静養しながら、体質から変えていくのが薬草というものだからだ。
後はただ、見守るしかない――。
無意識のうちに、マユラの両手は組まれ――ア・クシャスに祈りを捧げるような姿勢になっていた。
――どうか、二人を連れていかないで。
必死に、呪文を唱えるように、心の中で何度も呟く。
やがて。
シャナが、片膝をついた。
思わず、支えに入る。そのおかげで倒れることは防ぐことができたが――そこで、気づいた。
支えた手が濡れる。
シャナの服は既に、異常なほどの汗で重く湿っていた。
ここまで、なの――?
そう思った、そのときだった。
「戻った――ウガ!!」
大音声が響き渡った。
その特徴ある語尾――大きな声――。あまりにも聞き慣れたそれ。
振り返る。
やはりそれは、セイルだった。
そしてその周りを固めるように、三つの影――。
蜂蜜色の長い髪が揺れる細身の影は、カレン・ル・ジィネ。
長身の男もどこかで見たことがある。確か、島外の難民で――シャオ。
さらに、金髪の青年。こちらも島の民ではない――が、見覚えはあった。
アルファード・セドリック。
それが、その男の名前。
カケイは、いない――。
そして、全員が満身創痍。
特にアルファードは、酷い有様だった。
だけれども、その手には。
しっかりと、短刀が握られていた。
おぼつかない足取りだったが。
アルファードは確かに、その短刀を持って、一歩、一歩、こちらへ進んでくる。
見たことはなかったが、分かった。
祭壇のようなものの前で並んで立つ二人。
そのうち、石を天に向かって掲げ、片膝をついている、女性――。
それが、『契りの娘』シャナ・ア・クー。
もう体力も気力もとっくに底をついていたけれど。
一歩、一歩、足を持ち上げて、歩み寄る。
その、すぐ横まで。
相手がこちらに気づく。振り向きはしないけれど、目線が、合った。
その視線が、下に降りて。
自分が手に持つもの――短刀に気づく。
目が、見開かれた。
そして。
軽く、微笑んだ。
それを見て、微笑を返そうとした。
だけれど、うまく身体が動かない。唇さえも。怪我に、疲れに――緊張に。
唇の端をゆがめた――奇妙な表情になってしまうのが自分でも分かった。
情けない気分になる。
それでも――、
ありがとう。
そう、聞こえた。
力の無い、微かな声だったけれど。
震える手で、短刀を受け取って、彼女は確かにそう言った。
へたり込む。
もう限界だった。
シャナの手が、肩に触れる。
脱力するアルファードに腕を回し。
お互いに、支えあうような格好になる。
触れ合う身体が、仄かに暖かくて、心地良い。
ほんの数瞬のだっただろうか。
アルファードを座らせると、彼女は。
薄絹のケープをそっと脱ぐように、ゆっくりと離れて。
毅然と、祭壇へと向き直った。
近くにいた少女が側にやってきて、手当てをしてくれる。
やれるだけのことはやった。
後は――任せるだけだった。
それが、アルファードの覚えている、その時の最後の光景だった。
そのまま、意識を失う。
鏡が祭壇に置かれた。
シャナはアルファードから譲り受けた短刀を持ったまま、セゥと二、三、言葉を交わす。この後の儀式の手順についてなのだろう。
二人が、ほぼ同時に頷いた。
見守る面々にそれは、奥に輝くア・クシャスのシルエットを中心とした、合わせ鏡のように見えた。
シャナの右手と、セゥの左手がしっかりと握られ、繋がる。
それぞれ、左手には短刀が、右手には石が握られて。
本来は、一人の『契りの娘』が、両手にそれらを握るのだろう。
同時に、二人は顔を上げた。揺らぐア・クシャスの光に向かって。
鏡が光を放ち始め。
まるで、宥めるかのように、慰めるかのように、労わるかのように。
ア・クシャスの光と同化していく。
揺らいでいたそれは、少しずつ小さくなり――揺らぎが収まる――ように見えた。
だけれども、それはほんの一瞬だった。
強い光が――ア・クシャスの瞳が輝くと同時に。
収まろうとした反動だったのか。
今までより、強く。
揺れる。
二人が――崩れ落ちる。
と同時に。
両膝をついた二人を乗り越えるようにして、急激に、力が溢れた。
それは、維持していたときとは全く違う、眠りに誘うかのようなそれではなくて。
強引に、奪っていくような――力。
引き込まれるような。
そして――輝きは収まらず。
吸い込まれるような力の奔流はとどまることを知らず。
手遅れだったのか。
二人をもってしても、贄となるのを止めるどころか、儀式を終わらせることもできないほど、事態は差し迫っていたのか。
マユラがそう思い、光の強さに目を瞑ろうとする――が。
光がさえぎられる。
マユラの目前に、その周囲に横になっているアルファード、ヴィーダ、メルフェニを守るように――セイルが立ちふさがった。
さらに――その背から飛び出すように。
長髪が揺れた。
カレンだった。
光を抱くように、自らを捧げるように、両手を一杯に広げる。
「足りないなら――あげるから。だから――止まって!」
奈落の底に落ちていく、光の爪に自らの内なるもの全てが引き剥がされるような感覚がカレンを襲った。
天地がなくなったような、自分がどこにいるのかが分からなくなるような――。
意識を失いかけた、そのとき。
太い腕に支えられる。
セイルだった。
微かに視線が合い――力強く、セイルは頷く。
「――ここまで来て、ダメだったなんて、んなことにはさせやしないさ」
また別の声が耳を打つ。
見ると、シャオに肩を借りて、ヴィーダが起き上がっていた。
「そうです。必ず、戻るんですから――ここにいる皆で」
メルフェニが、セイルを支えにして。
一族の協力者たちも、その輪に加わった。
溢れる緑色の光の中。
ア・クシャスの瞳を、全員で、見返す。
負けはしないと。
シャナとセゥを囲むように。
二人もまた、互いに手を固く結んだまま、ゆっくりと、膝を持ち上げていく。
皆がそうして、立ち上がり。立ちはだかり。
向かい風と強い光に抗って、顔をあげて――。
身体から抜けていく力を、生命の炎を、それぞれに少しずつ分け合って。
やがて――。
光と風は、ア・クシャスの中に、収まっていく。
揺らぎ、圧力を持って巨大に見えた翼持つ狼の姿は。
二周りも小さくなり。
こちらを飲み込まんとしていた力も、その姿の内側に消えたようで。
射竦めんばかりの瞳の光は、別の感情を見せ始める。
それは悲しみ――いや、どちらかといえば、哀しみ。その中にほんの少しだけの――羨望。
眼差しだけだけれど、それははっきりと、そう感じさせた。
いや、それだけではない――その場にいる全員に。
ア・クシャスがもつ感情が――意識が、流れ込んでくる。
いくつもの意識が――記憶が、幾重にも折り重なり、混ざり合っていた。
それは――これまでの『契りの娘』の記憶だった。
世間を知ることもなく、疑問も抱かず儀式に臨んだ者。恋人と逃げようとして、適わなかった者。心の中だけで悲痛な叫びをあげて、でも皆のためにと諦めた者。
そして贄となり、力と魂の全てをア・クシャスに吸い取られて――いや、同化して――。 そう、ア・クシャスは神などではなく――。
この緑の光も、本来ア・クシャスの力ではなく――呪力の、魔力の吹き溜まり――それを抑えるための、『楔』。
ただただ無制限に、無為に放たれ溢れそうになる力を制御するために、意識が、意思が――感情が、必要だったということ。
しかし、器であるア・クシャスはやがてその溢れ出す力に感化され意味を失い、制御するための意思や意識は倦み、疲れ――やがて、新たなる意識を求める。同じ悲しみを生むと分かっていても、力に圧され、感情は振れ、どうしようもなくなる。
新しい意識と、意思を持った確固たる呪力を与えること。
そのための、儀式。
それは今までは、ア・クシャスの真実を知ることが、即ち、そのままア・クシャスとの同化にいたることであったために、誰にも知られずにいたことで。
そのために、いつしか儀式からは意図が消え、曖昧な口伝のみが残り。
力の暴走に対する恐怖はア・クシャスへの畏敬へと変わっていった。
だけれども、今回は違う。
セゥが隣に立ち。
ヴィーダが、メルフェニが、カレンが。
セイルが、シャオが――マユラが。
力がア・クシャスに流れ込み。
全員の意識が緩やかに混ざり合い、一人一人が、少しだけア・クシャスと同調する。
全てを与えてはあげられないけれど。
ほんの少しだけ、痛んだア・クシャスの意識たちの寂しさに、辛さに。
感謝の気持ちと、できるだけの力を――分けてあげる。
こちらを見つめる瞳の光が、また違った感情を帯びる。
それは瞳だけなのだけれど。
誰の目にもそれは、なぜだか――。
微笑んでいるように、見えた。
最後に。
一陣の風が、吹いた。
暖かな風だった。春の到来を告げるかのような、暖かな――。
そして、光が消える。
* * *
儀式の間から光が消え――ア・クシャスも姿が消えたと同時に。
それまでが嘘だったかのように、天候は回復した。
水位についても元には戻らなかったものの、多少は下がり、安定した。
山に避難していた集落の民は、最初はおそるおそる、やがて歓喜の声とともに、集落へ戻っていった。
集落に残ると宣言した一部の人々を中心に、死者や行方が分からなくなった者も少なくはない数が出たが、アルマとアガタの指揮があったことで、人的な被害は最小限に抑えられたと言えた。
ヴィーダとシャナはお互いに抱き合って無事を喜び――シャナは、その胸の中で泣いた。喜びと、悲しみと、悔恨と、全てが混じった涙だった。
だが――全てがそれで、解決したわけでもなく。
セイル、カレン、アルファードから、オントが死んだこと、そしてカケイもまた、死んだことが伝えられた。オントを道連れにするようにして。
アルファードがカケイから受け取った指輪は、改めて、シャナに渡された。
戦闘の経緯とカケイの最期の言葉を聞いた彼女は、小さく「馬鹿ね」とだけつぶやいた。
その目から一筋だけ、明らかにこれまでとは違う涙が流れたけれど、アルファードは見てみぬ振りをした。
そのシャナとセゥは――ほとんど全ての呪力を失っていた。
また、あのとき儀式に協力した面々も、かなり呪力が低下していた。
――生き残った一族の人間は、シャナを中心にしてこれまでと同じく生活していくらしい。シャナは――ア・クシャスが寂しがらないように、と一日一度は儀式の間で祭壇に祈りを捧げ、語りかけているらしい。
今までの一族とさほど変わらない日常――だが大きく違うのは、シャナが積極的に集落との交わりをするように一族の者たちにも促したということだろう。家屋の復旧なども手伝いにきている。
これからは、一個の集落として扱ってくれればいい、社の中にも、訪問者がいれば基本的には受け入れる――これからの儀式のことについても、話し合っていきたい。そういう考えだということだった。
それは、シャナ自身の、ヴィーダやメルフェニをはじめとした友人たちと話をしたい、外を見たいという気持ちがあったからではあったが。
ヴィーダは疑いは晴れたものの、結局は山の一族の者たちと一緒に、社を生活の拠点として暮らし、シャナとセゥの良い友人、そして相談相手になっているようだった。
そのセゥはと言えば。
いくらオントの元で、半ばだまされるような形ではとはいえ。方々に迷惑を、そして危害を加えたことには間違いはなかった。その罪が消えるわけでは、もちろんない。
一旦戻ってきていたホームステイ組のテセラ・ナ・ウィルトと一緒に島外の難民の元を訪れ、謝罪をし――自ら、罪を償うために何でもする、と伝えた。
相手の直接の被害者――ラルバと、もう一人の男性は、謝罪を受け入れてくれたそうだ。具体的には、保養所の修繕と清掃を償いとして求められた。もちろんセゥが拒否するはずもなく、彼はそれ以外にも、向こうの村だけでなく、湖の集落も行き来しつつ、肉体労働をこなすことになりそうだった。
ただ集落全体としての島外の者たちの村との関係は、はっきり言ってしまえば悪化した。交易は続けるが、非公式な訪問は受け入れない。ホームステイもしばらくは行わないことになった。
集落の人間の全てが敵ではないことは、もちろん分かってはくれているだろう。
しかし、族長であったオントが仮面の一団を操っており、また異形の怪物となり相手の村を襲ったのも、オントに従い行動を共にした仮面の一団の中に、山の一族や湖の集落の人間がいたのも、また事実である。
代表だった人間がそうだったのだから、不信感は深くなるのも当然だった。
これも時間をかけて少しずつ、解決していかなければいけない問題だろう。
そのためには――いつまでも、集落の長が不在になるわけにはいかなかった。
「……うーん……正直な話、あんまり肩書きって欲しくないのよね……、アルマ、あんたどう?」
セゥを連れての難民村への謝罪、家屋などの復旧作業の指揮、これまでと同じく揉め事の仲裁――必死に村をまとめようとするテセラの姿は、誰の目にも既に族長として映っていた。 それでも、改めて集落の一同から、正式に族長となってほしいという要望があがったとき、テセラは苦笑しながらそう語ったのだった。
「何言ってんだ。こっちはこっちで向こうとの交易やら、そこから発展しての関係回復やらで忙しいんだ。何から何まで全部やれってんじゃない。対外的なことはそうやって手伝ってやるし、それについてはアディシアなんかもやる気だ。ルビイも怪我が治ればホームステイの再開に向けて動こうとするだろうしな。揉め事はラトイが意外と役に立つ。今回のことで親がなくなった子供なんかはフェネアがまとめて世話してくれるそうだしな」
アルマの口から次々と挙がる名前。
テセラはそれでも族長と呼ばれることは嫌がり、固辞した。
ただそれでも実質のところ、肩書きだけの話で――彼女が集落を取りまとめていることは紛れも無い事実だった。
近いうちに、住民たちの声を聞き、多数を持って族長は決められることになっていたが――テセラが選ばれる可能性は高いだろう。
オントを失っても、一人の力ではなく、みんなで。返ってこないものはたくさんあるけれど、取り返していけるものだってあるはず。
アルマが語るとおり、皆がそれぞれに考え、動き始めていた。
マユラはこれまで以上に知識を、そしてその知識をより良く活用するために、社と集落を往復し、儀式のことなどを学ぶことにしたらしい。交易担当のアルマの手伝いという形で難民村にも行き、島外の者たちの魔法知識にも触れたいと思っているようだ。やがて来る次回の儀式のために、学べること、学びたいことは多かった。後に、これ以上しっかりしてもらうと末が恐ろしいどころじゃない、でも頼もしい限りだわ、とテセラはアルマの前で語った。
アディシアは、頓挫してしまったホームステイ計画を再開しようと、何とか難民村にアプローチをしようとしていた。一度頑なになった相手との接触はなかなかに難しく、とにかく根気を要求された。だが、彼女は諦めようとはしなかった。以前の弱さはそこには見えなかった。
フェネア・ナ・エウルとカレンは主にこの災害からの復旧に尽力した。力仕事はできないが、親を失った子供の世話、復旧作業をするもの達のサポートや指示、やることはいくらでもある。フェネアは孤児院を作り、将来的には難民村のそういった子供たちともやり取りをしたいと考えているようだった。またそんな中でも彼女は歌の練習だけは欠かさず、子供たちの前ならば、臆することなく歌を披露することができるようになったそうだ。
一方。
オントを説得しようとして一時は生死の境をさまようほどの大怪我を負っていたルビイは、容態が安定するまでは難民村で治療されていたのだが、なんとか峠は越え、問題はないということで、背負われて集落へと戻ってきた。
診療所へ運び入れられる。もう何度目だろうか。見舞いに来たり、介抱に通ったり。相当診療所に縁があるな――とルビイは心の中でつぶやく。
そっと寝台に横にされる。
まだ、少しの衝撃でも身体のいたるところが痛む。
思わず顔をしかめ、目を瞑った。
「だ、大丈夫っ!?」
声が、すぐ近くで上がった。
声だけで、誰だかは分かる。
うっすらと、目を開けると。
目の前に、マユラの顔が一杯に広がっていた。
思わず、目と目が合う。至近距離で。もう少し近づけば、お互いの鼻と鼻が触れそうになるほどの――。
顔が熱い。血が昇っていくのが自分でも分かった。
それに気づいて、マユラも飛び退くように離れると、改めて寝台の隣に置いてある椅子に座りなおす。
なんとなく、どちらも押し黙った。
既に、ここまで運んできてくれたセイルはいない。
「無茶――したんですってね……人のことは、言えないけど」
軽く咳払いをした後、責めるような口調でマユラは言った。
今のその姿からして、それは一目瞭然だ。
言い逃れなどはできないだろう――特に、相手がマユラでは。
「ごめんなさい……オント様を、止めたくて……思わず」
別にルビイがそうする必要はないのだが、思わず謝ってしまう。
再び、沈黙。
反応の無さに、なんとか頭を上げてマユラを覗き込もうとすると。
「……うっ、……し、心配したんですから、ねっ……ぐすっ」
マユラの瞳から、大粒の涙がこぼれていた。
先に戻ってきたテセラたちからルビイのことを聞いたときから溜め込んでいた感情が全部噴き出したかのように、ぐずり続ける。
そのマユラの声が、止まった。
目線が下に向かっていく。
ルビイは、しっかりと、彼女の左手をつかんでいた。
「もう、無茶しません……心配させません……心配してくれて、ありがとう」
生きて帰ってこれて良かった、と思った。
「……貴女から見たら、すごく頼りない奴かもしれませんけど……マユさんの事、一番好きでも良いですか?」
こちらを見て、目を見張っていた。
答えは。
泣きはらした真っ赤の瞳と、微かな笑顔だった。
返事はもらえなくても、それで良いと思った。
今はまだ、幼い二人だったけれど。
きっと将来、集落を担う、中心となる二人になるだろう。
振り返るべき過去だけではなく、これから作っていく未来こそが――そっと手を重ねる二人の、その先にはあるに違いなかった。
ヴィーダはセゥと二人、ある場所にいた。
そこは、昼なお暗い、地下――。
族長の家のあったところから続く、地点としては、湖の畔に位置するところ。
湖の部族の族長にだけ伝わる、湖の守護を祀り、祈りを捧げる場所――だった。
二人にとっては色々な意味で思いで深い場所である。
オントから、仮面の一団を率いる者として指示を受けた場所。
黒神石を奪い取った後、そのオントに――裏切られた場所。
たった数ヶ月のことだけれど、色々なことがあった。
シャナと出会い、束の間、集落で過ごした日々。
あの時の生き生きとしたシャナを、今は毎日見ることができる。
時折、どこか悲しげな眼差しを見せるけれど。
それは忘れることができなくても――少しずつ時が解決してくれるだろう。
セゥは喜怒哀楽を表に出すことをためらわなくなってきたようだ。いや、どちらかと言えば――喜怒哀楽を、知り始めたというところだろうか。
ヴィーダ前では特に、生き生きとした表情を見せていた。
毎日、各集落で。時には罵倒を浴びながらも肉体労働をして、でもそれらを真摯に受け止めて、できる限りのことをしようとしている。だからと言ってしてきたことの罪は消えはしないし、償いは一生かかっても終わらないだろう。
一族はこれまでの秘密主義を止めると同時に、オントに従っていた者たちは今回の騒動でほとんどが命を落とし、残った数名も捕らえられた。しかしそれでも、一族に対する目は、これまでの畏怖の反動もあってか、非難のそれが強い。それもセゥ個人と同じように、長い時間をかけて少しずつ、解決していかなければいけないことだろう。
これまでのこと、これからのこと。
そういったことに思いを馳せながら、ヴィーダは、手にした小箱を抱きしめて、床に座りこむ。
その中には、セイルが拾い出してきてくれた、オントのものと思われる――着ていた服の、切れ端が入っていた。
もはや彼の遺品といえば、それだけだった。
族長宅は全てが終わった直後に、真相を知り激した人々により燃やされていた。
亡骸は四散して回収することも適わなかったそうだ。
今、オントの名を集落内で出せば、それだけでそれは憎悪の対象となるだろう。
それを責めることなどできはしない。事のほとんど全ては――オントが引き起こしたことなのだから。それは事実。
でも、自分だけは、悲しんであげようと思った。
オントの死を。
その苦しみを分かってやれなかったことを、気づいてやれなかったことを。
「神になんてならなくても誰もあんたを捨てたりしない、でもあんたは始めから捨ててたじゃねぇか」
口にし始めたら、止まらなかった。
涙と一緒に、あふれ出てくる。
「俺の事も部族の事も他の誰の事も。今という現実全部捨てて過去に生きてた。力があってもどうしようもない事もある。この世には絶対も永遠も存在しないんだ。それでも永遠があるとすれば心だ。時と共に変わる事もある中で、変わらない心もある。あんたを庇ったアイリだってあんたを愛してた事実は永遠だ。終わる事を恐れるな、悲しみや苦しみを過去の思い出にする事を恐れるな、変わる事を恐れるな。人が人として生きていく為には必要な事だ。心があるからこそ何かを望む。神は、誰も何も欲さない。それにあんたが族長じゃなくなったとしても、俺はあんたから離れないよ。惚れてるって言っただろ? 利用されてるだけだって分かってても、あんたの役に立ちたいと思ったのは――アイリと同じ気持ちだったんだ」
そこにオントがいるかのように――ヴィーダは語り続けた。
応えはもちろん、ない。
オントの本心がどこにあったのかは分からない。ただヴィーダが一族の人間に虱潰しに聞いて回って分かったのは――オントの父、前族長が、アイリの父――前の『契りの娘』の父でもある――と面識があったということだった。
それを語った一族の人間も一度しか見たことは無いが、言われてみればオントと思われる少年を社で見たことがあるということ。
二十年前と言えば、オントは少年から青年へと変わっていく年齢である。
アイリと繋がりを持っていたこと、そして、儀式への、力へのこだわり――それは、前回の儀式に、『契りの娘』に関係しているのかもしれない――アイリも、それらしいことを言っていた節があった。
どちらにしても、今となっては全ては推測に過ぎないことではある。
その震える両肩に、優しい重みが加わる。
セゥの腕だった。
後ろから、小箱を抱えるヴィーダをさらに抱えるように、腕を回し、身体をあわせる。
「……オントの分まで、生きよう。一人で抱え込むんじゃなくて、みんなで――二人で、話しながら」
セゥの口から出た台詞とは思えなかった。
でも――精一杯、搾り出した台詞だということは痛いほどに分かった。
「そうだな……生きてて良かった、って思えるように……楽しい事、嬉しい事、色々な事、沢山探していこう。生きてる事実感していこう。あんたの名前、何度も呼ぶから。皆で良い方に変わっていけたら、良いな」
そう言ってヴィーダは、抱かれたまま振り向いて、相手と同じように、腕を回した。
「ほんとに、いくんか?」
橘・花梨の問いかけには、自らが体験してきた海の恐怖からの、心配の響きが濃かった。
そこは集落からもだいぶ離れた海辺。
海辺とは言っても、最近の水位上昇で海辺となったような場所で、浜とはとても言えない。本来そこから生えるはずの無い木なども、海中から顔を出している。
その光景はこれまでの洪水、異常気象の爪あとを花梨に思い出させるが――今は、波は穏やかだった。
「ああ。もう決めたことだからな。まだまだ集落も、花梨たちの村もこれからが大変だろうが、頑張ってくれ。交易も……途中で放り出すような形になってしまって申し訳ないが」
声をかけられた男――アガタ・ナ・ベッラは、以前花梨とアルマに言った台詞と同じようなことをもう一度語った。
その足元には、海に出るには心もとない、アガタとその荷物を載せてまえば定員かと思うような小船がある。
この船だけで、海へ出て行こうと言うのだ。しかも、目的地はない。正確に言えば、陸地を探すという目的はあるのだが――それが果たして存在しているかどうかという保証さえない。世界のほとんどは沈んで、以前の地図・海図などあっても役には立たない上に――アガタは島の外に出たことはない。
無謀にもほどがあった。
花梨は異常気象が収まって以来、踏みとどまるように説得した。が、彼の意思は固く、翻ることはなかった。
そして、今日という日がきてしまった。出発の日に立ち会えただけでも良かったのかもしれないが……やはり悔恨の念は残る。
「これ……うちからの餞別。これ使えば、海の水からでも真水を作ることもできるやろうし」
そう言って鉄鍋を渡す。それが、花梨のできる精一杯だった。
「ありがたく、受け取っておく――できたら笑顔で、見送ってくれないか」
いつのまにか、花梨の顔は歪んでいた。
こんなんじゃいけない。
アガタの言うとおりだった。
精一杯の笑顔で、送り出してあげよう。
可能性はゼロじゃない。きっと。
「ほな、元気でなっ! また、いつかなっ!」
大きく手を振る。
さよならではなく、また、いつか。
そう考えよう。
その声を背に、アガタは船を漕ぎ出した。
ゆっくり、ゆっくりと、その姿が小さくなり――長い時間をかけて――消えていった。
* * *
「……よく書けてるが……いいのか、これ。マユラあたりが見たら……ただじゃ済まないんじゃないか?」
読み終わった紙の束をそっと置き、アルマがつぶやく。そのときのマユラの様子を想像したのか、そこには苦笑だけではなく、多少の恐れが混じっているように見えた。
「いいんですよ。ちょうどお見舞いに行こうとしたら、偶然見かけた、事実ですし。さすがに後で別にします。秘密の本ってことで。花梨さんからは本の作り方見てるときに聞いた話で、許可を得てますし」
メルフェニは、笑顔で答えた。
全てが収まった後、彼女は花梨から紙を使った本の作り方というものを教えてもらった。それで思いついたのは、今回のこと――そしてこれからのことを、記録として残しておこうということだった。
アルマには執筆に当たって最も世話になっていた。メルフェニでは最初に話しかけにくい相手でも、アルマなら臆することもない。交易を始めとして、テセラと並び集落の中心人物になり始めているから、顔も広かった。それで、できあがってきている分もアルマには一番に見せている。それは、協力してもらうに当たって約束したことでもあった。
書き出すと止まらない筆。
マユラとルビイの秘密のシーンはともかく、メルフェニはそれらを広く皆に見てもらおうと思っていた。
それで、二つの村の関係が良くなるきっかけになったり、儀式のことをより良く研究する礎になればいいと思った。
もちろん逆の結果を生むことだってあるだろう。
でも、残すことはきっと、大事なんだと信じていた。お互いのことを知ろうとしなければ、何も始まらないと考えていた。
同じようなことが、繰り返されないためにも――。
そして今日もメルフェニは、筆をとる。
日差しは暖かくなり始めた。
これまでも、これからも。
辛い日々は続くかもしれないけれど。
それでも、毎日は続く。
やれるだけ、やってみよう――。
できるだけ、頑張ってみよう。
※マスターより
こんにちは、鈴鹿です。
最終回までお付き合いいただき、ありがとうございました。
期待に添えなかったところも多々あるかと思いますが、毎回精一杯頑張らせていただきました。楽しんでいただければ幸いです。
さて、これで一旦お別れ――の予定でしたが、駆け足で最終回まできてしまったこともあり、その後を書かせていただきたいと思っています。
どのような形にするかはまだ決まっておりませんが、決定次第ご連絡いたしますので、お待ちください。
ついに、終わりました。
トラブルもありましたが、今は疲労感とともに、充実感、達成感を感じています。
それもこれも、参加していただいた皆様と。
何より、主に遅筆故に色々とご迷惑をかけた川岸マスターに。
ありがとうございました。