アトラ・ハシス

『幸福の選択』

ぱぱた

 太陽が水平線の彼方に沈み、世界に夜が訪れてはいても、真なる闇というわけではない。
 空には無数の星が瞬き、澄んだ空気はその光を遮ることなく地上へと降らせる。
 落ちてきそうな星空のもと、複数の人影が連れ立って歩いていた。
「すみません、カタラ様」
 長い蜂蜜色の髪の少年が、傍らの大柄な男にすまなそうに言った。
「構わないだよ」
 カタラは少年に、底抜けに明るい笑顔を返した。彼の腕のなか、横抱きされた一人の女性が小さな寝息を立てている。
「まったく……お酒なんてどこが良いのでしょう?」
 カタラを挟んだ反対側を歩く少女、マユラが抱かれた女性を見て小さなため息を吐いた。
 抱かれているのは、お酒を飲んで寝てしまったテセラ・ナ・ウィルトだ。歩くたび、結い上げられた金色の髪が所在なげに揺れる。
 少年少女は当然ながら、カタラもお酒は飲まず……というより果てしなく食い気のため、酒飲みの心情は全く理解できない。
「ルビイさんも大変でしょう?」
「いえ、セラ姉様と一緒だと毎日が楽しいですよ」
 少年は笑顔で首を横に振った。そこに建前など感じられず、本当にテセラとの生活を楽しんでいるのだろう。
 テセラはルビイのことを、他部族のところにいた従弟だと周囲に言っていた。あまりそういった話は聞かないものの、ありえないことでもないため疑うものもいない。
「だけど、セラ姉様がお酒で酔いつぶれるなんて、初めて見ましたよ」
 ルビイが少し目を丸くして、抱かれたテセラを見上げる。テセラはお酒にめっぽう強い上、どちらかと言えば酔った他人を眺めて楽しむタイプのため、酔いつぶれた姿など今まで誰も見たことがなかった。
 その言葉に、マユラが小さな笑みを浮かべる。
「お酒に誘眠効果のある薬草の絞り汁を混ぜさせてもらいましたからね。朝まで起きないと思いますよ」
 まるで天気の話でもしてるかのようにさり気なく、けれど、とんでもないことを言ったマユラ。あまりにも自然に言われたため、ルビイは最初その意味を理解できなかった。
「え?」
「あのまま飲むに任せていたら、族長と二人で部族中のお酒を一夜で飲みつくしてしまいかねませんでしたからね」
 他にもお酒を飲んでいた人間もいたが、族長とテセラは別格である。二人とも底無しかと疑いたくなるほどだ。
 マユラの言葉を否定できず、ルビイはただ苦笑を浮かべることしか出来なかった。
「カタラは料理だけでよかっただよ」
「そうですね。あのまま酒宴が続いてたら食料のほうも危なかったかもしれませんね」
 カタラはそんなつもりで言ったのではないだろうが、彼のほうは食事関係のほうで底無しだ。これまた否定材料が見つからない。
 酒宴が開かれた理由を少年たちは知らない。カタラは知っていたかもしれないが、聞いてもおそらく忘れていそうなので二人とも聞くことはしなかった。
 ちなみに、酒宴は族長を含める何人かが不意に寝てしまったため、なんだかんだでお開きになっている。
 そうこうしているうちに、一行はテセラの家に到着した。
 カタラはゆっくりとテセラを下ろすと、ルビイとマユラが彼女を布団へと寝かせる。お酒に混ぜられた薬のせいだろう。多少乱暴に扱われても起きる気配はなかった。

「さて、と……」
 帰路につくマユラとカタラを見送ったあと、彼女の上に布団をかけながら小さなあくびをかみ殺す。
「僕も寝ようかな」
 一人で起きていても特にすることがない。
 自分の布団を用意しようとした瞬間、ルビイは何かが光を反射してることに気付いた。綺麗な物が好きな少年は、思わずそれに反応してしまう。けれど、それがなんなのか知ってしまい、気付かないほうが良かったのかもしれないと少しばかり後悔した。
 涙。
 眠ったままのテセラの目の端に、涙がたまっていた。それがたまたま月明かりを反射したのだろう。
 少年の目の前で、涙が美しい寝顔に筋を作る。
(え!? あ……えと…)
「……ヴェイク」
 軽いパニックに陥ってると、テセラの口から聞き覚えのある名がこぼれた。
 その名前に、ルビイの思考が一時止まる。
 テセラ本人は気付いてないのかもしれないが、彼女の口から時折その名前がこぼれることがある。
 一度だけ、それが誰なのか聞いたことがあった。その時のテセラの悲しみの混じった寂しい笑顔を、ルビイは忘れられないでいる。結局それが誰の名前なのかは知らないけれど、聞いてはならない名前なのだろうと思う。
 誰だったか、自分には兄がいると言っていた気がする。
 誰かがいたというおぼろげな感覚はあっても、家族の顔はまったく思い出せない。自分の記憶は、きっと洪水に飲まれて流されてしまったのだと思う。
 もしかしたら、ヴェイクというのは兄の名前なのかもしれない。
 けれど、それをテセラに確認することは出来なかった。もう、彼女のあんな笑顔を見たくはないからだ。

 大切だったかもしれない家族。
 それを忘れてしまった自分は薄情なのだろうか?
 ぼんやりとした感覚はあっても、懐かしさや親しみは湧かない。
 けれど、心のどこかに空虚な穴が開いている。
 寂しさとも違う、表現できないその想いは、いつからか心の片隅に住み着いていた。

 いつか……失くしてしまった自分の欠片を見つけることが出来るのだろうか?
 その時、この空虚な想いがなんなのか分かるのだろうか?

 疑問は尽きないけれど、それに答えてくれるものはいない。
 もしかしたら……過ごした時間のように、もう同じには戻れないのだろうか?

「セラ姉様……」
 小さな呼び声は、ルビイの寂しさの表れ。
 少年の想いに答えることはないけれど、闇はただ優しくそこにあり、柔らかな星達の光と共に包み込んでくれる。

 失ってしまったものは大きいのかもしれないけれど……
 得たものも大きいのかもしれない。

 新しい家族。
 今はただ、彼女とともに暮らしていければ、他には何もいらなかった。



「まずっ!!」
 テセラは椀の中身を一口すすると、心底嫌そうにそう言った。
 椀には野菜等を煮込んだ茶色の汁物が入っている。見た目は美味しそうなのだが、どこをどう味付けを間違えたのか、しょっぱいような苦いような形容しがたい味になってしまっていた。
 問題は、それを作ったのがテセラ本人だということだ。
「お、おっかしーわねー。どこで間違えたのかしら?」
 テセラはなんとか笑って誤魔化そうとはするものの、向かいに座ってる男は椀を口に運んだまま応えてはくれない。
 もともと仏頂面で愛想がない男ではあるが、こんな時くらい何か言ってくれてもいいんじゃない? と思ってしまうのはテセラのワガママだろうか?
 美丈夫なだけに、黙ったままだとどうにも迫力がある。
「ねーー、黙ったままでいられると怖いんですけど?」
「問題ない」
 そうぶっきらぼうに一言だけ言うと、男は再び椀を口へと運んだ。
 もくもくと食べるその様子に、テセラの顔にあどけない笑みが浮かぶ。
「自分で作っておいてなんだけど、じゅうぶんマズいわよ、それ」
 彼のその態度が、間違いなく自分に向けられた愛情なのだと、どこかくすぐったく感じてしまう。だから、面映いのを誤魔化すために、ついつい茶化してみたくなる。
「やっぱり……愛情っていう隠し味のせい?」
「腹に入ってしまえば何だって同じだ」
「ひっどーーい」
 にべもなく言われた台詞に、テセラが大きく頬を膨らませた。
 が、次の瞬間にはくすくすと笑みがこぼれ、それにつられて男もその口の端に微笑を浮かべる。
 二人の会話はいつだって似たようなものだ。軽口と無愛想な短い返事。けれど、互いへの愛情がそこには確かに感じられる。
 とてもとても甘い時間。
 そんな二人の様子を、家の外、さらに離れた物陰からうかがう小さな影があった。
(兄様の味オンチっ)
 離れているために会話の内容は聞き取ることは出来ない。だが、これ以上近づけばバレてしまう。だから雰囲気で察するしかないのだが……家の中の二人の空気が気まずくなるような事態にはならないようだ。
 小さな影が、失敗に更なる嫉妬の炎を燃やす。
 どうすれば二人の仲を裂けるだろうか、と。

「今日はいつまでいられるの?」
「夕方には帰る」
「そっか。なら……いっぱい甘えちゃお」
 男は砂の部族で、テセラは湖の部族。他部族との交流はそれほど多くはなく、それゆえに頻繁に会うということが出来ない。
「それはいつものことだろう?」
「いつもよりも、いっぱいってことよ」
 無理をすれば出来ないということもないのだが……二人はそれをしなかった。募った想いを、会えたときにより甘いものへと変えようとするかのように。
 イタズラっぽい笑みを浮かべ、テセラは男の背後にまわる。そして自身の大きな胸を押し付けるように、彼を背後から抱きしめた。

 愛する人がいればいい。
 たとえ神を敵にまわし、全てに背いたとしても、この人だけがいればいい。
 そう思ってしまう自分は、とても罪深いのかもしれない。
 けれど、罪へと誘うその毒はとても甘く、私の全てを奪い去る。
 だから私は虜囚なのだ。
 罪を知り、深き業を自覚して、想いという名の鎖に囚われる。
 逃げようとも思わないのだけれど……

 こつん
 テセラの後頭部に、なにか小さなものが当たった。
(気のせい?)
 けれど、一度だけではなく何度もなにかが当たる。そばに落ちていくそれは、小さく硬い木の実。
 振り返ると、窓から走り去る少年の背中が見て取れた。
(あれは……ルビイくん?)
 兄のことが好きで、私にとられたと思っていろいろ意地悪をしてくる少年。
 テセラとしては仲良くしたいのだが、完全に嫌われてるようで取り付くしまがない。ひょっとしたら、料理の味付けが変だったのも、目を離した隙にあの子がなにかしたのかもしれない。
「どうかしたのか?」
「ううん、なんでもないわ」
 どんなに意地悪されても、嫌いにはなれなかった。愛しい人の弟ということもあるが……なにより同じ人を好きな者同志だという、奇妙な仲間意識のほうが強い。
 いつかきっと、ルビイとも仲良く笑える日が来るはずだ。
 テセラはそのことを疑いもしない。
「ね、そうでしょ、ヴェイク?」
「なんのことだ?」
「なーんでもないっ」
 笑いながら、テセラは彼を抱きしめる腕に力を込めた。どんなことがあっても、彼がどこにも行ってしまわないように、と。


 目覚めると、すでに夜は明けようとしていた。
 冬を迎えようとするこの季節の陽は弱いものの、テセラは軽い目眩を覚える。
(いつの間に寝ちゃったんだろ?)
 どうにも記憶があやふやだ。
 それでも身を起こそうとして、そこでようやく自分がなにかを抱きしめていることに気がついた。
(ヴェイク?)
 目覚めたばかりの頭は、夢と現実を混ぜ合わせる。
 けれど、それは望んだ愛しい人の姿ではなかった。
(ルビイくん、か)
 小さなため息一つ。
 ルビイはちょくちょく、テセラの布団にもぐりこんでくる。
 少年とはいえ、もう13歳を迎えているルビイに、最初は慌てたりドキリとしたものだったが……顔も思い出せない家族の温もりを求めているだけだと悟ってからは、なんとなく好きにさせている。
 ただ、テセラもたまに寝ぼけて隣のルビイを抱きしめたりするものだから、あまり他人には知られたくはない事実ではある。
 眠っているルビイを起こさないように身を離し、テセラは立ち上がると、んーーーーっと体を伸ばした。

 朝が来て、体は目覚める。
 けれど心は、目覚めない。
 幸せな、
 あまりにも大切な夢は、
 幸せな分だけ、現実で心を大きく深くえぐっていく。
 
 あれから……
 世界が滅びるかと思われた洪水から、どれほどの果てない夜を数えただろう?
 そして、いくつの季節が音もなく過ぎ去っていくのだろう?
 あの人はもう帰ってこない。
 理性がそう囁く。
 けれど想いが……心がそれを認めない。

 テセラは見えないナニカをかき抱くように、自分自身を抱きしめる。

 不器用な優しさを、
 ときおり見せてくれる笑顔を、
 抱かれたときの暖かさを、
 すぐそばで聞いた鼓動を……

 忘れられない『彼』という存在。
 認めてしまえば、それら全てを永遠に失ってしまう。
 それはきっと、世界の終焉よりも……

 まだ安らかな寝息を立てるルビイ。
 辛い記憶と一緒に幸せなことまでも忘れてしまった少年。
 それは不幸なことかもしれないが、想いに苛まれることもない。

 忘れてしまう不幸と安寧。
 忘れられない幸福と痛み。
 はたして、本当に幸せなのはどっちなのだろうか?

 重い荷物を背負っていても、誰しもが『明日』という陽炎へと歩んでいく。
 それなのに、私は『想い』という名の鎖で『昨日』に囚われたまま。
 分かってはいても、歩みだす勇気がもてない。

 人前でどんなに強がって見せてはいても、独りになるとその仮面がひどく重く感じる。
 闇が澱となって、雪のように心の中に積もっていく。


 ……お願い。
 私を助けて……ヴェイク。
 揺るぎない『現実』に、押しつぶされてしまう前に……

 助けを求める叫びは声にならず、ただ一筋の涙となって頬を伝った。


あとがき
これもゲームが始まってすぐあたりに書いたSSです。テセラさんとルビイくんのPLさんに了承を取って書かせていただきました。まぁいつものように駄文ではありますが(汗) 話の時期的にはゲーム序盤辺りですね。
書いた当時はマスターにも送ったのですが、今見ると恥ずかしいですね(苦笑) でも書き直す時間もないのでそのまま(爆死) 余裕あれば後日談に対してのSSも書きたかったのですが・・・拙いものではありますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです(ぺこり